麺酒論 嚆矢
Restaurant/cafe
153-0041 Meguro-ku
Japan
Phone: menshuron@gmail.com
営業日営業時間は御予約に応じて承ります。
職人は技と味で語ってこその矜持であり、言葉を以てすべきではないというのが僕の信念ではありますが、
麺酒論の意味を質問されることもままあるので、ここらで一回だけ語ってみようかと思いました。
それとこれから出てくる「お酒」とは基本的に日本酒のことであることを予めお断りしておきます。
『麺酒論』はそもそも僕の造語です。
元ネタは唐代の戯作「茶酒論」です。(これを基にして日本で作られた「酒茶論」というのもありますが)
話の内容は物凄く大雑把にすると、「お茶」と「お酒」がそれぞれどちらが優れているか口論となるというもので、最後は「水」が出てきてお互い自分が元なのだから仲良くしようと丸く収めるという日本でいえば昔話的なものです。
そんな訳で開店当初の当時としてはうちの店で麺を食べる人(麺)と酒を飲む人(酒)とが同在して楽しむ空間を提供するという意図でした。
しかし、本来僕の中で二本の柱の一方である麺そのものの考え方が、今世に云う「ラーメン」というものと自分が考え追求したい「ラーメン」との乖離が甚だしくなっていると実感するようになりました。
ただまぁ誤解を招かないようにですが、特定の誰かにケンカを売りたいのではなく僕のラーメン愛が偏執的であり物の見方がへそ曲がりなことに起因していることなので一般的な良識のある方はそんなことで腹を立
てないで頂きたい。(一応これ位遜っておけば予防線にはなるでしょ。それでも噛みつく血の気の多い人はいるんでしょうが、まぁ最後までお付き合い下さい)
自分なりの表現をしようとすると一般的なラーメン観という枠そのものから飛び越えてゆかなければならないと。丼一杯で終結する世界から、一回の食事としてラーメンをメインに据えることのできるスタイルの追求。
まだまだそうした理想には程遠い自らの未熟さに歯噛みしながらも日々自分が作るものたちに自分の総てを託しているのです。
そうした想いに拍車をかけたのが今のお酒の素晴らしさです。一見すると出荷量としては最盛期を遥かに下回り蔵元の数もどんどん減ってゆくような斜陽感を感じてしまうかもしれませんが、その質と多様性に注視すれば空前の黄金期であると自分は感じています。
お酒造りに関わる人たちがそれぞれの場所で高みを目指し気を吐く姿は、苦境であるという背景を差し引いたとしても、国民食などと呼ばれ自分たちの住む安閑とした世界の中で砂山を作って園児よろしくはしゃいでいるものとは比べるべくもなく、自らの身を顧みるにただただ恥じ入るばかりでしかなかったのです。
はぎしり燃えてゆききするひとりの修羅になりたいと懊悩し、何かせずには済まされない身を焦がす想いに心は突き動かされているのです。
ここでまた少し話の角度が変わりますが、江戸の頃から町民がお酒を飲む場として重宝された場所の中にお蕎麦屋さんがあります。
タネと呼ばれるお蕎麦に乗る具材でお酒を飲むわけですが、その中に「抜き」と呼ばれるものは丼からお蕎麦を抜いてしまって出汁と具材を肴にするというものもあります。僕は昔からこれが大好きなのです。
今現在でもそうしたお蕎麦屋さんの使われ方は引き継がれており(実際自分もお蕎麦屋さんでの一杯は楽しいものです)確固たる地位を築かれております。
お酒の方に目を向けてみれば(あくまでステロタイプな捉え方ですが)、今のお蕎麦屋さんでは吟醸系のお酒が置かれることが多いと思います。そばの香りも大切なのにバッティングし易い吟醸系に偏っているのはどうしてなのでしょうか?
日本酒の飲まれる嗜好として”軽くて飲みやすいもの。華やかな香りがあれば更に良し”という傾向があるのは事実ですがもう一つ僕は理由があるのではないかと思います。
お酒の品質や飲み口の種類が多様化し、江戸の頃のお酒とお蕎麦の相性(当時は茹でるよりも蒸したものが主流だったそうなので今感じる香りとまた違ったと思います)の感覚と現在のお酒とお蕎麦のそれが変化していったのではないかと考えるのです。その流れににまだ十分な対応がされていないのではないではと思うのです。
そしてその考えを推し進めると「日本酒と醤油(味噌でも塩でもいいのですが今回は話の論点として)を出汁で割ったものは相性が良い」という根本的な方程式は不変であるのですが、今現在における代入すべき数値や要素が大きく変化しているということになります。
そうして僕の思考は更に、今の日本酒の品質にオールラウンドで対応出来る新たな出汁があれば…。
それは従来のお蕎麦の出汁ではなく寧ろ自分が考えているラーメンの出汁により近いのではないだろうか?と考えるに至ったのです。
やっとここで本線に戻りますが、蔵人の魂を感じるお酒に競い合うようにして自分が作る出汁を高めていけたらどれほど幸せなことか。そこにこそ自分の人生をかけても足りないような難問に魅力を感じ自分の魂は終わりのない階段を登り始めてしまったのです。
ここでさらにようやく麺酒論の意味合いの話に戻るのですが。当初意図した麺酒論に新しい意味が生まれてきたのです。麺とお酒の幸せな真剣勝負を自らに課しお客さんにその勝負を楽しんで頂きたいと。
いや、正確には新しくとはちょっと違うかもしれません。自分でも妙な感覚なのですが開店当時にそうした思考の萌芽が無意識にあったのではないかと思っているのです。
『麺酒論』の為に日本酒に合う最高の出汁を作りたい。ラーメン屋でそれを実現する『嚆矢』でありたいと今思うようになっているのですから。